「安全」に対する考え方(その4の1)〜福島第一原発事故に思うこと

【出典】原子炉お節介学入門 上巻 pp.60-63

筆者は京大原子炉、臨界実験装置等の設計、建設、運転、研究に従事された方で、「月刊産業とエネルギー」誌の連載を単行本にまとめたもの。語り口調で初心者にも分かりやすく原子炉について解説されている。

先日起こった震災のニュースを見るにつけ、技術者としてこの教訓を如何に活かすべきか考えない訳にはいかないが、まずは先人の意見に真摯に耳を傾けるべき。筆者はAs Low As Reasonably Practicableな設計を否定されているような記載も一部あるが、私には目指すところは同じように思われる。

ポイントは「絶対安全はない」「残存リスクが顕著化させないためには継続的努力が必要」。

世間では「原子炉は絶対安全になっています」という説明がよく行われる。これに対する強い反対意見も多い。当事者でないような言い訳で申し訳ないが、よく考えると、これは両者とも少しおかしい。

(中略)

これからは高速増殖炉核融合、廃棄物処分など、どの分野でも人類初めての非常に説き難い胃問題がおしよせてくる。やってみなければ永久に分からないことも多い。弾力的な考え方で難問に取り組む姿勢が必要である。いろいろな条件が入り込んだ難問がすべてそう簡単に解けるわけではない。「安全」は本来絶えず努力することによってのみ得られるものであって、「これで安全」という、横綱のようにはっきりした地位のようなものがあるわけではない。特に原子炉のように歴史が浅く、技術経験の蓄積が十分でない分野ではそういう地位に近いところに達するだけでも色々は失敗を重ねながら努力して行くことが必要と考えている。

(中略)

ごく簡単なことである。「原子炉は停電でも安全」と説明し、「発電所がとまっても自家発電設備で十分炉心冷却など、安全機能は保持できる」ということになっている。

しかし、これを設計するとするとなると簡単ではない。「停電」をどこで検知すかが先ず問題である。電力をとり込む一番大もとのところで検知すれば、という考えが自然である。ところが、実際に電力を使う機器は、すべてがそこから電線で直結されているわけではない。何段かの安全のために設けたブレーカー(過大な電流が流れた時に自動的に切れる)を経て末端に配られるが、大もとで電気が来ているからといって末端まで来ているとは限らない。重要な安全動作をする部分には電気が来ていないことを考えられる。それではと、そこにも停電検知器をつける。すると、そこで小さな絶縁不良などが起こって異常電流が流れブレーカーが切れると、これが停電信号となって巨大な原子炉が緊急停止することになる。それは困るからと、切れる場所によって応答を変えることも可能だが、複雑になるのでこれも限度がある。大げさにいうと、こんな簡単なことでも「安全」な設計は不可能なのである。