鉄の骨/池井戸潤

【出典】pp.648-654

池井戸潤は、1998年に『果つる底なき』で第44回江戸川乱歩賞、2010年に本書『鉄の骨』で第31回吉川栄治文学新人賞、2011年に『下町ロケット』で第145回直木賞を獲得。企業小説にミステリーの要素を融合させた新しいスタイルを切り開き、上記3賞を受賞するに至った。著者は本書で、『”談合”という社会的なテーマを、実に鮮やかに一気読み必須のエンターテインメントのなかにとかしこんでみせたのである』(下記より抜粋)。なぜ平太が業務課に指名されたのか、なぜ平太が談合担当になったのか、なぜ一松組はJVでなく単独受注を目指したのか、なぜ検察は強制調査に踏み切ったのか、伏線が最後の「どんでん返し」で腑に落ちる演出も絶妙だ。

ここでは、巻末にある文芸評論家の村上貴史氏の解説が全体をコンパクトに要約されているので、そのまま掲載した。

信州出身の富島平太。東京の高層ビルの素晴らしさに圧倒された記憶を持つ彼は、自身も建設の仕事に携わりたいと、ゼネコンへの就職を求めた。結果的に大手への就職は叶わなかったが、中堅ゼネコン・一松組への入社を果たす。入社時の熱意のままに平太は大好きな現場で働き続け、やがて建設現場で主任として多くの作業員たちとともに建築に従事するようになっていた。

下請けのいい加減な仕事に我慢がならず拳を振るってしまうほど熱く真っ直ぐな平太に、異動の指示が下ったのは四年目のことだった。異動先は本社の業務課。営業を担当する部署である。現場思考の平太にとっては不満の残る異動だったが、サラリーマンである以上仕方がない。

だが、異動先は想像以上の異世界だった。ネズミ顔で神経質そうな課長に、脂肪太りのタバコ臭い先輩、そして気の強そうなまなざしの年上美女。現場とはまるで違う空気をまとったそんなの三人が、次期社長候補である常務の腹心として受注確保に奔走するのである。そして業務課には、下請けとの価格交渉と言った”表”の仕事以外にも、もっと重要な調整という任務があった。調整―すなわち談合である…。

池井戸潤は、平太という談合について何も知らない青年を通じて、談合の実態を実行者の側から克明に描いている。平太は、先輩が役人を訪ねて状況を探り、同業他社と調整を進める様を目撃し、また、談合の調整役として知られる”天皇”こと三橋とも自ら会話を重ねることになる。はじめて見る受注/談合の実態に戸惑い、自分を納得させ、恋人との会話で意地をはり、そしていつしか染まっていく。その過程で、読者はゼネコンが談合を進める理由を体感してくことになるのだ。

しかもその理由は幾度も鍛えられることになる。平太の彼女で、なおかつ一松組のメーンバンク白水銀行に努める野村萌を通じて。

大学のテニスサークルで知り合い、社会人になってからつきあい始めた平太と萌は、当初は同じ価値観を共有できていたが、特に平太が業務課に異動してからというもの、ゼネコンと銀行という職場の違いからくる価値観のズレが顕著になってきていた。その彼女が平太が主張する談合の必要性について、きわめてまっとうな疑問を示すのだ。ともすれば、先輩に談合の必要性を説かれて納得してしまう平太に寄り添って、それを仕方ないながらも認めてしまいそうになる読者を、萌が糾すのである。あなたはそれでも談合を認めますか、と。

池井戸潤は、さらに読者の心を揺さぶる。萌と同じ職場のエリート銀行員である園田を、彼女の新たな恋人候補として、彼の言葉を通じて銀行員のロジックできっぱりと談合依存の企業を斬るのである。平太の恋敵でもあるため、読者としてはその意見に反発を覚えるのだが、それでもなお説得力のある談合不正論を、園田は唱えるのだ。

さらに検察の視点も加わる。検察からすれば談合が悪なのは当然のことだが、彼らは個々の悪を追及するというよりは、その奥にいる親玉の摘発をターゲットとして動く。その彼らの調査はすなわち、ゼネコンによる談合必要論とは別の観点での談合必要論―もっと薄汚い必要性―をあぶり出すことになる。

そして三橋の存在がある。物語が三橋の視点で語られることはないが、彼の考えは、平太との会話を通じて読者に届けられる。談合の象徴とも呼ぶべき人物は、何を考え、何を願っているのか、そろそろ人生の終盤にさしかかった男は、談合のなかで生き抜いてきた人生をどう振り返るのか。彼もまた別の視点で談合の実像を示してくれているのだ。

こうして読者は談合は必要なものか徹底して排除すべきかを様々な視点で吟味させられることになる。これはすなわち池井戸潤が最初に抱いた疑問、つまり談合はなぜなくならないのかという疑問を、読者自身が、自分の頭の中で吟味していくという行為に他ならない。作者が示す解答を押しつけるのではなく、自ら考えなさいということだ。

池井戸潤が巧みなのは、この吟味を徹底してエンターテインメントのなかに織り込んでいる点である。

そしてその中心にあるのは、受注を巡って繰り広げられる企業間の死闘だ。どの会社も自社の利益を最重要視しつつ、他者を横にらみで戦略を練る。生きるか死ぬかの勝負であり、ゼネコンの死は下請けの死に直結するという企業群としての勝負である。その真剣勝負のなかで、新進企業なのに談合を拒否し続けるトキワ土建の狙いは何か、なぜそんなに強気でいられるのか、といった謎が読者を惹きつける。また、別の大型工事(二千億円規模だ!)においては、談合に加わるか否か、談合に加わらないとしたらどうやって大企業連合を相手に受注を勝ち取るのかといった白熱の闘いが読者を強烈に魅了する。そこに検察による談合の摘発というスリルも加わってくるのだ。まさに、一読、巻きを措く能わず、池井戸潤は、”談合”という社会的なテーマを、実に鮮やかに一気読み必須のエンターテインメントのなかにとかしこんでみせたのである。

(中略)

ミステリとしての側面も見逃せない。

池井戸潤は、そもそも江戸川乱歩賞というミステリの新人賞を受賞してデビューした作家である。

受賞は1998年のこと、銀行員が同僚の謎の死に挑む「果つる底なき」が栄光に輝いたのだが、それは、三度目の応募での受賞だった。つまり、池井戸潤は徹頭徹尾この賞を、我が国のミステリの新人賞において最も歴史のある賞を狙って小説を書いていたのだ。

(中略)

例えば、談合の正当性を納得させるための伏線が、冒頭二頁目の終わりから三頁目にかけてにもう早速はられている。こういう記述があることで、読者はその後展開される談合擁護論がすっと胸に落ちることになるんだろう。

マネーロンダリングの仕組みについてもミステリ作家としての一面が顔を出している。裏の金を表の金にするために、その手順を複雑にすることで辿りにくくするという”量”に頼った手順は用いず、資金の流れの一部にロジカルにジャンプするステップを組み込むことで追跡を断つという、”質”の面で巧妙な手順を用いているのである。この飛躍が実にミステリ作家的な飛躍で、読んでいて嬉しくなる。

嬉しさを感じる瞬間はここでけではない。二千億円案件の受注に向けたコストカット先がいよいよ行き詰った段階で示される”秘策”もまた、読者を驚喜させるだろう。こちらも従来型の思考の盲点を突くアイデアであり、それまでとは全く異なる絵を提示して見せるだ。ミステリに驚かされ快感と共通する愉しさを堪能できる。

そして結末も、である。ある大きな構図が明らかになり、読者は実際に意外は真相に直面することになる。あれが伏線だったか、と驚愕しつつ、だ。

こうして振り返ってみると、殺人や密室といったいかにもミステリ的な要素は持ち込んでいないが、物語を転がす手続きは、出来のよいミステリと共通している。その技巧やそれが生む驚愕などを用いて、談合をめぐり企業間の闘争と平太の成長を、池井戸潤は映画いたのである。やはり、江戸川乱歩賞でデビューした彼ならではの一作なのである。

【評価】
★★★★☆

【目次】
第1章 談合課/第2章 入札/第3章 地下鉄工事/第4章 アクアマリン/第5章 特捜/第6章 調整/第7章 駆け引き/最終章 鉄の骨